みきみに@アフリカの徒然日記

官僚を辞め、NGO職員としてアフリカ駐在中。読んで心穏やかになる記事を書いていきたい。

「面倒くさい」という言葉をNGにした小学校の先生の話

小学校5、6年生のころの担任の先生が口癖のように、私たち生徒に言っていた言葉を今でも覚えている。

 

「『面倒くさい』という言葉を使うな」

 

正直、漢字ドリルとか、社会の小テストとか、小学生なりに「面倒くさいな」と思うことは多々あった。だから、私も友達も、「あー、めんどー」みたいに、それはもう無意識に口から発しているかのように言ってしまうこともあった。

 

そんなときに先生は「あ!面倒くさいって言った!絶対に言ったらだめ!」みたいな感じで、いちいち反応してくる。それも、小学5、6年の私たちには面倒なのだった。

 

でも今になって、先生の伝えたいことが分かった気がする。なんなら会社というもので働くようになった初めてわかった、というのが正直なところかもしれない。

 

「面倒くさい」ことはたくさんあるのである。書類の稟議やら、細かい報告やら、定例の会議やら。でも「面倒くさい」という言葉でそれらを片付けてしまうと結局そこから何も楽しみも、幸せも、やる気も、何もかも、うまれてこないのである。

 

「面倒くさい」は完全に受け身の姿勢を作り出してしまっている。結局、自分がコミットしていくことで、やりたいことや楽しいことは見つかってくる。そのコミットのチャンスというのを「面倒くさい」というのが一蹴してしまう。

 

それでもやっぱり、「面倒くさい」という言葉を使うたびに反応してくる先生は、小学生の私や友達にとって、「めんどー」だった事実は変わらないのだけど、ふとこの事実に気づいたときに、先生は大事なものを伝えてくれていたんだな、と温かい気分になったし、今更ながらこの先生の教えを大事にしながら、生きていきたいな、と思った。

マネジメントのポジションにつくということ

私は今までまったくマネジメントとは遠い場所で働いていたのに、いきなりマネージャーというポジションになった。今までは何となく職場で起こることに巻き込まれて過ごしていればよいだけだったし、上司とのやり取りとかで悩むことはあっても、何かを自分が中心となって動かさなきゃいけないみたいなことはほとんどなかった。

そんな中でいきなり自分の肩に「責任」というものが重くのしかかってきたように感じている。

だから、マネジメントのポジションについたときに重要なことを整理して、明日からにつなげたい。

 

1:情報収集と意思決定

マネージャーの毎日って、情報収集と意思決定が大事なのだと思う。

・何がニーズとして「現場」としてあるかを情報収集し、どのような手をうつかを決定する

・一人一人の部下がどのような状態にあるのかを情報収集し、どのような手をうつかを決定する

・目標達成のためにうまくいっていない部分が何かを情報収集し、どのような手をうつかを決定する

マネージャーって責任も重いし、達成しなきゃいけないことも大きいし…と思ってしまうこともあるけれど、結局一人の人間ができることって一分一分の積み重ねでしかない。結局はインプットとそれに基づくアウトプットで、自分の有限な時間をどこに割くかの判断が重要なのだと思う。

2:テコ入れ

上記1の「どのような手をうつかを決定する」と似ていることだけれど、マネージャーの仕事はテコ入れが大きな要素だと思う。自分のアウトプット=チームのアウトプットになる。チーム一人一人が動いているが、その中でどこに対して自分は手をうてば、アウトプットが最大化されるのか、それを1の「情報収集」と「意思決定」で決め、実際に「テコ入れ」することで実現する。

3:チーム管理

2にも書いた通り、自分のアウトプット=チームのアウトプットである。もちろん一つ一つの事象に対して情報収集→意思決定→テコ入れをすることは大事だが、動く主体となっているチームメンバーが機能していることが大前提である。「友人」や「対等な立場」ではなく、「マネージャー」として、適切なフィードバックをして、一人一人のメンバーを動かす。組織で人事考課の制度があるならば、しっかりと自分でも活かし方を考えて、適切に活用するべき。

 

ひよっこマネージャーとして、今のところ考えていることをまとめてみた。正直自信ないことばかり。でもやるしかない。同じ立場の人、無理しすぎずいきましょう。

アフリカでの映画鑑賞記録:『ミッドナイト・イン・パリ』

週末は最低1本は映画を見ているし、折角だから映画を見た感想をまとめてみようと思う。今回は大好きな映画で何回か見ている『ミッドナイト・イン・パリ

 

この映画は2011年のパリで撮影されたアメリカ映画。脚本・監督はウディ・アレン。彼はアカデミー賞に24回もノミネートされており、最近だと『ブルー・ジャスミン』とかもよく知られた映画。『ミッドナイト・イン・パリ』もアカデミー賞脚本賞を受賞している。

 

私のこの映画の好きなポイントは二つ。

推しポイント1:映像と音楽がとても綺麗

これは、日本にいたときに見たときから好きだったポイントだけれど、アフリカに住んでいるからか、更にこのパリの美しさに惹かれる。特に「パリは雨のときが一番良い」というのが素敵だなーと思う。パリはいったことがないのだけれど、チェコプラハを旅した時に、本当に雨が素敵だと思った。もちろん旅行でひととき訪れるだけだからこそ、雨の似合う町と感じられたのかもしれないけれど。街並みと雨がリンクして、なんとなくノスタルジックな感じが演出されるのがとても素敵。

推しポイント2:人々は「現代」を否定して、過去にあこがれを抱くというテーマ

アメリカに住む映画の主人公は、「ノスタルジックショップ」を営業する店主が登場する小説を書いている。パリにはフィアンセとくるのだが、どうも感性の部分があっていないようだ。パリの夜の街を歩いていると0時の鐘とともに、過去からきた車が目の前に現れ、誘われるがままに乗り込む。すると過去にタイムスリップし、ヘミングウェイピカソの生きた時代にタイムスリップ。その時代に取りつかれ、自分の書いた小説を自分のあこがれる「過去の」作家に読んでもらい批評をもらったりする。

そんななか一人の女性にひかれる……。あまりにも書くとネタバレになるのだが、最後にはこの女性と、さらに「過去」にタイムスリップする。

そして主人公は気づくのである。人々は自分の生きている時代を否定して、過去にあこがれを抱くのだ…ということに。こういう場面の"denial"とか"nostalgic"とかいう単語に惹かれてしまう。

 

何となく今に不満を抱いている…そんな人ってほとんどだと思う。自分の今生きている時代が完璧だ…なんて早々思えることではない。別にこの映画は「どう生きるか」とかを教えてくれるわけではない。でも何となく、今もいいかもな、と思わせてくれるし、綺麗な映像と音楽が少なくともこの映画を見ている時間を肯定してくれる。

 

 

 

 

アフリカでW杯をみた思い出

 

6月28日(木)の夜に行われた重要なW杯の試合。普段住んでいるところとは別の事業地で宿泊したホテルで日本戦を見ようっ!ととっても楽しみにしていた。

しかし、そんな楽しい妄想は実現されることがなかった。。

 

理由その1:そもそも日本戦がテレビに映らなかった

とても残念なことに、泊まっていたホテル(といってもクオリティはなかなかコメントしづらいもの。シャワーとトイレとベッドがある…ということだけはいえる。シャワーはもちろん水、部屋に入ったらまず虫と格闘。でも町では一番の宿泊施設である。)は、テレビのチャンネルが2チャンネルしかうつらないとのこと。1チャンネルはもちろんセネガル対コロンビア戦。こちらの友人は、別に自分の国でなかろうと、アフリカの国がでていたらそこを応援する。セネガル戦も自国かのように応援する。そしてもう1チャンネルは、なぜかVIP的に来ていた人が自分の部屋でW杯以外の番組を見ているという…しかもしょうもない映画。。ホテルの従業員さんに直談判するも、こちらはどうしても変えられない…という。セネガル戦を変えるわけにはもちろんいかない、それは納得できる…でもこの謎の映画は変えてもよいだろう…。。といくら思っても変えられず、結局セネガル戦を見ることに。

 

理由その2:日本がトーナメント進出してセネガルが進出できなかった…

もちろん、日本で見ていたなら、別に日本が進出できれば気持ちよかったとは思う。でも、なんといっても一緒に見ていた人はみんなセネガル推し。セネガルが負けただけでもみんな意気消沈しているのに、日本がトーナメント進出できて、セネガルができないとわかったときはひたすら気まずい。こういうときどういう顔してよいかわからなくなる(笑)しかも、堂々の進出だったら良いけど、フェアプレーポイントとかいうなんとも微妙な差……最後はセネガルがコロンビアと同点においついたら日本出られなくなるけど、、でもこのあとの気まずさ考えたら…とかいうなんとも微妙な気持ちになってしまった。

 

それでもやはりこちらの人のサッカー熱はすごいし、一緒に見ていて楽しい。次の日本戦も楽しみ!

官僚になる前に考えるべき、官僚を楽しめる人の特徴とは

官僚は自分には全く合っていなかったけど、それでも官僚に合っているな、と思う人もいて、実際に「この人仕事楽しいんだろうな」と思える人もいた。自分が楽しめなかった分、実際に働いていた時に、「どんな人が楽しめているのか」を考えたことがあった。そのときに仕事楽しそうだな、と思える人に共通する一つの特徴があることに気づいたので、そのことについて書いてみたいと思う。

 

ずばり、その特徴とは「政治家と関わるのが好き」なことである。

政治家と関わるのが好きな人は仕事が楽しそうだった。もちろん省や部署にもよるけれど、かなりの時間を国会対応にとられることも多い。そんなときに、議員への根回しとか、国会での答弁とかを、もはやゲームかのように楽しめる人は、仕事が好きになれるのだと思う。

あとは、昇進していくにつれて、政治家との付き合いが大事になってくる。というかもはや自分も政治家みたいになってくる。だから、そのあたりの付き合いとかが好きな人は楽しめるのだと思う。議員への説明とか、勉強会とかも積極的に楽しめたりしないともはややっていられない。

だから、学生の頃に議員と関わったり、国会中継を見たりして楽しめる人は官僚という仕事は楽しめるのではないかな、と思う。(ちなみに私は国会中継とかほぼみたことないぐらいのレベルだった…完全にこのタイプに当てはまらない。ちなみに国会対応に追われる部署には本当に行きたくないと思っていた。でもそういう部署が結局省の要となる業務をやっていたりする。)

 

途中で書いた通り、省や部署によるから、そこはよく見極める必要がある。本当に「政治家」に興味がもてるか、それはもし官僚になることを考えている人がいたら、考えたほうがよい。

 

2:

他人に理解されなくていい

「なんでこれ選んだの?」って言われることが多い。「なんでその仕事選んだの?」「なんで転職したの?」興味をもってもらえるのは嬉しいけど、「なんか論理的に納得できないんだけど」みたいな顔をされたらいやだなと思ってしまう自分がいる。

一つ一つの自分の中での変化とか、その時々にやっていたことへの熱い思いとかは他人に説明したり共感してもらうことで、協力が得られたりするから、良いことだとは思う。

でも、「なんでそう思ったの」っていうところに対しては、一つの物事に関する感じ方は人それぞれだから、そこは自分の感情に正直になってよいのだと思う。

私は今の国際協力の仕事も好きだし、接客も好き。全然二つって違うじゃん、っていう人もいる。そもそも、笑顔を向けたら笑顔が返ってくるような温かい空間がとても好きで(むしろ笑顔返してくれないと勝手に傷つく…)だから、そういう空間が増えたらよいと思うし、そういう空間の一部でいたいと思っている。

「『笑顔を返してほしい』なんてくだらない」って思う人も大勢いると思う。でも、他人にそこを理解してもらわなくてもいい。

結局説明して納得してもらえる部分なんて、だれが考えてもそうなるよねっていう上澄みの部分なだけであって、本当に自分が大切にしなきゃいけない部分っていうのは、自分だけがわかっていればよいんだ

 

「○○してあげる」という気持ちでの行動は誰も幸せにしない

「○○してあげたのに…」と少しでも考えてしまう行動は誰も幸せにしないものだ、と思う。

 

仕事でも、「後輩が忙しそうだからこの資料の作成は私がやろう」という行動をとったとして、少しでも「資料の作成をやって『あげた』」と思うぐらいならやらないほうがよい。「なんで御礼いってくれないんだろう」「なんで『代わりにこの仕事やりましょうか』っていう一言をいってくれないんだろう」なんて心の中で不満が溜まりだす。

 

それは、完全に自分で自分を嫌な気持ちにさせているだけである。

 

「この資料作成やって」ということを適切な形で指示ができない「できない自分」を自分はできる上司だから後輩の忙しさに配慮してやってあげたんだという「できる自分」で多い隠しているだけである。御礼を言ってくれない後輩にはなんの落ち度もない。

家庭でだってそうである。「お風呂洗いをした」それで、その事実だけで自分が済むならいいけれど、「御礼をいってほしくて」「代わりに洗濯はしてほしくて」というのは誰も幸せにしない。これらをやってくれない相手に不満がたまるばかり。それならそうとしっかり伝えればよい。

 

これらの「○○してあげる」という気持ちは、相手をコントロールしようとする気持ちである。相手に御礼を言わせたい、相手に代わりにやらせたい、と相手をコントロールしたいという気持ちが出てしまっている。

 

相手をコントロールしたいという気持ちは誰も幸せにしない。コントロールされる方も窮屈だし、する方も不満が溜まる一方である。

 

だから、「○○してあげる」という気持ちでやるならやらないほうがよい。すぐに別の方法を考えるとよい。